3.11の後に仙台で見つけたもの

人材輩出支店。

仙台支店がカバーする営業エリアは、東北6県すべてにおよぶ。この広いエリアを北と南に分け、営業メンバーは、毎日、カーディーラーや損害保険会社、板金工場、解体業者へアプローチしている。

チームワークとメンバー育成を重んじる風土が、優秀な人材を育てている。営業のやり方は、たとえ若手でも本人に任せるのが基本方針だが、ベテランは若手の行動に細かく目を配り、じっくり教育やマネジメントを行う。成績の伸びないメンバーに、先輩が同行フォローをするのは当たり前の光景。営業成績だけで評価されることもなく、まわりのメンバーにどれだけ貢献したか、部下の教育をきちんと行っているかなどが厳しく問われる。

支店内にベテランと若手の間の層がいないのは、ここで育ったメンバーが他の支店などに異動となるためだ。せっかく育てたメンバーが巣立っていくことは、鎌田支店長にとって誇りであり悩みである。

そんな仙台支店が、あの日を迎えた。

3月11日、その1。鎌田と総務メンバーの場合。

鎌田は、仙台市内のコンビニ前で、直前までメンバーの及川と携帯で話しをしていた。切った途端、激しい揺れを感じ、その場に立ちすくんでいると、地震警報が入った。携帯に表示された数字を初めは呑み込めない。「津波警報10"m"?」普段は"㎝"、単位が違うのだ。余震が続く中、支店に戻ると、総務のメンバー3人が外で震えながら待っていた。

当時、仙台支店には、大型の書庫や隣りの会社とを仕切るパーテーションがあった。前日にも大きめの地震があり、総務メンバーは書庫などに潰されないよう地震が来たら外に避難することを決めていた。

そして、14時46分。メンバー3人で逃げる導線を確保しようとドアを開けた途端、廊下に投げ出された。さっきまで自分たちがいた事務所に響く物の倒れる音、割れる音を聞きながら、這うように非常階段を降り、ビルの前へ。目の前に広がっていたのは、倒壊するビル、折れた電柱、散乱するガラスだった。どこかの事務所の警報音が鳴り響く中、3人は固まったまま動けなかった。鎌田の車を見たとき、思わず涙がこぼれた。

3月11日、その2。及川の場合。

直前まで鎌田と電話をしていた及川は、石巻市のコンビニの駐車場にいた。電話を切り客先へ行こうとした矢先、激しい揺れが襲った。思わず車につかまるも、車はその場で跳ね向きを変えた。大きな揺れが収まった後、非難するため実家近くの小学校へ。普段は津波の心配などない場所だが、車を停め移動した体育館から車が水に呑み込まれるのが見えた。体育館も水に浸かったため、その日は立って夜を明かした。

連絡がつかなくなっていた家族に会い、実家から支店に無事を知らせることができたのは、地震発生から1週間後のことだった。

私たちは被災者じゃない。

東北6県に散らばっていた営業メンバーを始め、支店メンバーは、それぞれの場所で大地震に遭遇していた。祖父母や親戚、友人知人を亡くしたメンバーもいる。しかし、メンバー自身、あるいは、妻や夫、子供で、命を落としたり大けがをした者はいなかった。

それなら、自分たちを被災者と思うのはやめよう。被災者として過ごすより、復興に向けて前進しよう――それが、メンバー全員の共通した気持ちだった。地震発生から数日後には、出勤できる者は支店へ集まった。何かしたい、行動しなきゃという気持ちに駆り立てられて。

支店内は、もちろんメチャクチャだった。仕入れたダメージカーを保管していた2,000坪のヤードにも津波は押し寄せ、整列と並んでいた200台以上の車は流され、潰れ、折り重なっていた。まさに地獄絵図という中で、メンバーは黙々と什器を片付け、ヤード内の車から機動力を確保するため、ポンプでガソリンを抜いた。

全国のTAUの支店からは、支援物資が続々と送られてきた。支店メンバーは、及川ら津波被害が深刻なメンバーに優先的に多く渡すことを、何の異論もなく決めた。

営業しないという決断。

幸い、支店に電気が復旧するのは早かった。FAXも電話も何とかつながった。すると、既存顧客を中心に、震災で被害を受けた車を引き取ってほしいという依頼が殺到した。宮城県だけで数十万台ともいわれる量である。ビジネスチャンスという言葉が、頭に浮かばなかったといえばウソになる。事実、被災地には全国から来る同業他社で溢れ返っていた。

しかし、仙台支店は、新規営業をしないことに決めた。既存顧客からの引き合いがあったものは求められたもの、引き受けることは復興につながる。しかし、売り込みや営業を行うことは、ただの金儲けだ。「だから、やりません」。そう鎌田は本社に伝えた。やれと言われるかもしれなかった。そうなれば、暗澹たる気持ちでも従わざるを得なかっただろう。だが、社長も全く同じ気持ちだった。仙台支店の決定を、本社は全面的に支持した。

忘れられないピザ。

行動開始。ダメージカーを引き取り、その保管場所を確保するため、全員で瓦礫の散乱する町を走り回った。ヤードから抜き取ったガソリンはたちまち底をつき、ガソリンスタンドに何時間も並ぶことになった。ガソリンを手に入れた後で、みんなで食べたピザほど美味しいものはなかったと、メンバーの一人は振り返る。

最初は小さな保管場所を数か所、最後には5,000坪のヤードを確保することができた。ダメージカーが続々と運び込まれ、ヤードはすぐにいっぱいになった。全国にあるTAUの支店からは、10台近くの車と4、5名の人員が、1週間交代で仙台支店を手伝った。

みんな、必死だったから、いつごろどんなことがあったかは、今となってはハッキリと思い出せない。しかし、2012年を迎えるころには、仙台支店は震災前の姿を取り戻していた。

変わらないもの、変わったもの。

震災によって仙台支店は変わらなかった。鎌田の人柄を反映するように、明るく、いつも笑い声が絶えないが、やるときはやる支店。若手がのびのび仕事し、ベテランがそれを見守る支店。それによって、優秀な人材が育つ支店――確かに、その姿は変わらない。

しかし、何かが変わった。それは、多分、メンバーの意識のようなものだ。利益よりも大事なことを、今はみんなが自覚している。「お客様の信頼が第一、その対価が営業利益」。会社が掲げる「誠実であれ」。そういう言葉を、今では誰もタテマエと思っていない。

ある営業メンバーは、お客様に言われた。「TAUは他の会社と違った。ガツガツ営業しに来なかったね」。他のメンバーも、こんな声を聞いた。「TAUのやり方は良かったね」。お客様はちゃんと見ていたのだ。評価は、営業成績にも見て取れる。仙台支店は、震災後も大きく躍進を続けている。

自信と誇り。

TAUは社員を守ってくれる。これも、メンバーが感じたこと。全国から届いた膨大な量の支援物資、応援メッセージ、全国から駆け付けた他支店のメンバーの活躍――それだけではない。もし、ダメージカーが町に溢れる状況に対して、ガンガン営業しろという会社だったら、未曽有の出来事を迎えたメンバーの心は折れていただろう。

それまで、ダメージカーのビジネスをダークなイメージでとらえていたメンバーもいた。だが、自分たちの仕事が、紛れもなく復興の一助になったことを身を持って経験するうちに、そのメンバーは、TAUの社会的責任、自分の仕事に対する自信と誇りを持つようになった。

こんな話もある。地震のとき、支店の外で震えていた総務メンバーの一人は、当時派遣社員だった。彼女は、今、仙台支店の正社員だ。この会社で働きたい。そういう本人の強い希望があったという。

※ 当取材は2013年5月のものです。